持田 修示(もちだ しゅうじ)

kamion@osa.att.ne.jp

大阪大学大学院理学研究科物理学専攻

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ひとこと:

大阪には大学院に入ってからすんでいます。
そう見えないらしいですが一応上智大学出身です。
ドラえもんをこよなく愛しています。

ふれあい祭感想:


 電脳村ふれあい祭には山田村という地名が一つのキーワードになっている。僕もこの地名にひかれて参加することにした者の一人である。この村で何が起こっているのか知りたかったし、ここに集まる人々によって今後どのような展開がもたらされるのか関心があった。主だった産業や産出物のない、過疎の村での大胆ともいえる試みに、村の人々が新しく導入されたパソコンに対してどう対応しているのかは、それ自体多くの人々の関心を呼ぶことである。実際にこの夏、学生とサポートグループの人々をあわせておよそ100人の人々がこの村に集まったことと、多くのマスコミの訪問をもたらしつづけていることは、それを如実に物語っている。

 僕は4月20日からこの取り組みに参加することになった。ふれあい祭をやることが決まった4月1日から数えて19日目のこの時点では、祭りの三本柱として「村人のパソコン導入のお手伝いをする(お助け隊)」「学生同士で情報化についての議論をする(勉強会)」および、「村の人との交流(ふれあいイベント)」が催されるということが決まっているくらいで、明確な目的や、ふれあい祭の目指す方向などはもちろん、具体的な各イベントの内容などは決まっていなかった。幸いにも就職活動で東京と大阪を往復する機会に恵まれたので、4月の終わりから5月の初めにかけて、ふれあい祭をやろうと旗を揚げた一人一人に会って、その思いを聞くことができた。するとやはり何ら具体的なことはもちろん、各自が共通に持ち合わせる概念のようなものも見えてこなかった。ただ一人一人がこの山田村での計画に何か大きな夢や希望を抱いており、それをなんとしてでも実現させてやろうという意気込みのようなものを持っていた。元々個人として高い志と能力を持っているこのような人々が、本当にまとまったら、何かとても偉大なことができるに違いない、そんな期待を寄せることができる人々に出会えただけでも大きな収穫だった。
 5月中は集まるたびに、ふれあい祭の主旨やコンセプトをはっきりさせるための議論に終始した。お互いの意識しているところをぶつけ合っていくうちに、「情報化」および「地域振興」という二つのコンセプトにしたがって各自が参加していることに意見が一致していった。過疎の山田村で情報化による地域振興の可能性を探っていきたいという思いは、おもに情報通信業界で就職先を探そうとしている学生にとって、自分たちが今後の日本の社会の将来像を構築する上での指針になるものという期待感を抱かせた。各自のそうした思いをどういう方向にまとめていくか、また各自で異なるスタンスをどうやったら包括的に取り込むことができるかについて、結局およそ2ヶ月くらいの時間を要した。「山田村から始まるネットワーク」というキャッチフレーズはそうした様々な議論の上で考え出された。このフレーズは、山田村というキーワードによって集まった学生やサポートグループの人々が、主にインターネットというネットワークによって集まり、そうした人々が実際にふれあうことによって、人脈というネットワークを更に築いていくことによって、情報化と地域振興の現況と未来を見据えつつ、ネットワークを更に広げていこうという思いを取り込んだものだった。6月中旬以降は、大きな核となる概念や方向づけも定まり、後は具体的なイベントの内容と日程を調整していく作業と、祭期間中のこまごまとした運営についてを決めていく作業、そして参加者を募る作業に絞られていった。

 ふれあい祭の過程がおもに電子メールやWeb上で行われていったことに注目する人々も多い。確かに新たに決まった決定事項や、今後やらなければいけないことの伝達はネットワークを通じて行われた。しかし文面やWeb上だけでは伝わらない、微妙なニュアンスや、発言者の意図などを確認するためにはオフラインミーティングを開いて、各自が集まらなければならなかった。特に初期の段階で、ふれあい祭に対する自分たちの目指す方向性や主旨、考え方をまとめるにあたっては、実際に顔を合わせて議論するということがいかに大切かを思い知らされた。むしろ、メールやWebはこうした会議の調整に使われたといっても言い過ぎではないと思う。やはり人と人が集まって話し合いをすることによってふれあい祭の形が作
られていったといえるだろう。

 組織的に見て注目したいことは、はじめにこのふれあい祭の構想を打ち立てた5人ができるだけフラットな関係を築き、中心点を置かないとした点である。この考え方は集まった5人がネットを通して知り合い、立場上みな平等であり、一人一人が責任と自覚を持って企画を進めていこうという基盤に基づくものであった。
 しかし僕が参加した4月末の段階ではこの考え方はうまく機能していないように見えた。すなわち、各自のスタンスは大まかなところでは一致しているものの、やはり相互で向かおうとする矢印の向きはちがっていた。こうした大きなイベントをするにあたっては、一人の大きな舵取り役が必要であり、みんなをまとめて一定の方向に矢印を向ける一つの大きなコンセプトを打ち立てることが必要であることは、明確なことであった。結果として当時ふれあい祭に関することのほぼすべてにもっとも通じている天野君が学生代表となった。また、上述のとおり、核となるコンセプト作りにも約2ヶ月を要したが、そうした一つの方向づけが決まるやいなや、具体的なイベントの内容や、参加者募集が一ヶ月あまりの間に急ピッチで進められていった。これは元々目指そうとしていた「フラットな関係」の構築を理解した参加者が積極的にかつ自主的に行動していった結果だといえると思う。ただ、この指針もふれあい祭期間中にあつまった約80人におよぶ学生をまかなうには及ばなかったように思われる。仕事の割り振りがうまくできなかったために、一部の人に多大な負担がかかるとともに、祭に参加したばかりの人にとっては、自分が何をしたらよいか分からないという場面もあった。参加者各自の自主的な判断と行動に基づく運営は、参加者の数がおよそ20名くらいまでならうまく機能するが、やはりそれ以上の人数に対応するには、細かい役決めと仕事の分担が必要になってくるだろう。

 ふれあい祭期間中は僕はもっぱらホームページの更新とお助け隊にあたった。
 毎日午前9時から12時まで村の情報センターでIBMのAptivaを用いて、前日にあったイベントの模様をHTML化してWeb上に載せるという作業をした。しかしこの時間だけでは圧倒的に作業時間が足りないので、情報センターの岩杉さんにお願いして、パソコン室が開いている間はできるだけそこのパソコンを使わせていただくことにした。それでも時間が足りないので、データを自分で持ち寄った外付けのハードディスクに落としてかつら寮に帰ってから作業を再開した。この間にパンフレットを作ったり、各イベントのビラを作ったりという作業も加わった。そのために、お助け隊以外では、村人や学生の計画した各イベントに参加することができなかったのが悔やまれる。しかしそうした作業のために、情報センターのパソコンや、防災センターにおいてあったパソコンを使うことを許可してくださった岩杉さん、パンフレット作成に大いに協力してくださった山崎さん、お助け隊で車を手配してくださった若林さんや頼成さん、さらには情報センターにいく途中に親切に麦茶を差し出してくれた中学生などをはじめとする村の人々と交流することができたのは貴重な体験となっている。祭期間中もせっせとイベントのお手伝いをしてくださった小向さんや谷上さんをはじめとする、村のこうりゃく隊の方々尽力も忘れられない。そのほかにも思いがけないところから、村の人々が次から次へと手を差し伸べてくれることで「ふれあい」を身をもって体験することができた。それだけ自分たちの活動が支持され、期待されているのだということを感じることができ、大変うれしかった。毎日の睡眠時間が2時間であったにもかかわらず、非常に快適に過ごすことができた。

 ふれあい祭は成功か失敗かという議論があるが、これには決着をつけられないだろう。僕としては、ふれあい祭、いやもっと包含的に山田村の事業自体を「実験」とみなしたらいいと思う。一つの実験では、当初の目的が果たせられなかったら、失敗といえるが、しかしそこから学ぶところはたくさんある。例えば人工衛星の打ち上げに失敗したとき、マスコミは300億円が宙に舞ったなどと書くが、かならずしも300億円すべてが無になるわけではない。必ずその過程でなんらかの技法やノウハウがうまれるわけで、そこから後の新たな発展に結びつけることができる。山田村の事業もそうした試みの一つとみなすべきである。単に当初の目的(この「目的」が明確にあったかどうかはわからないが)が達せられたかどうかというミクロ的な視点ででその成果を判断するよりは、長い目でマクロ的に見てその波及効果などにも着目して、判断がなされるべきである。長い目で見れば、今まで誰も予想しなかった効果がうまれてくるかもしれない。そうした効果を見ないうちからふれあい祭や山田村の事業の正否を判断することは危険である。

 ふれあい祭の当初の目的である、村の人との交流や、村の情報化事業のお手伝いをするということが、どこまで達成できたかは判断が難しい。あまりにも多くのイベントを打ち立てすぎたために、村の人とゆっくりお話するという時間が持てなかった。また、村の人のパソコンレベルの向上という点に関していえば、今回のお助け隊の活動がどこまで村の人に浸透しているかの事後的な活動や支援が行き届いていないという点も上げられる。
 しかし何はともあれ祭が滞りなく終わったという点では成功といえるだろう。
 振り返ってみれば、およそ3ヶ月という短い期間で計画から準備、そして実行に移るという過程はあまりにも急すぎるものだし、まして行政や産業からの支援もなく、おもに学生と村人の自主的な負担によって、大きな事故もなく終わることができたのはひとえに学生、村人、そしてサポートグループの一人一人の参加者の熱意と行動力によるものだといえる。あらためてこの祭を一緒に築き上げてきた人々に感謝したい。ありがとうございました。

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